カナダ留学体験記

Study abroad

これからカナダへスポーツ語学留学をお考えの方へ

経験者に聞け!!Ato代表の高尾がカナダに実際にサッカー・語学留学したからこそわかる、カナダのイロハ。
これからカナダへ留学する方へ向けたカナダ留学体験談を語ります。是非参考にしてみて下さい。

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私のサッカー歴 / 小学校~中学校

私は千葉県船橋市のごく一般の家庭、私立高校英語教諭の父と保育士の母の家庭の3人兄妹の末っ子長男として1984年に誕生しました。

公立の小学校に入学し、小学校4年生から通っていた小学校のサッカー部に入部、毎日サッカーに明け暮れていた少年時代でした。小学5年生の時に船橋市の選抜試験に合格し、船橋FCとして活動するも、レギュラーになれず悔しい日々を過ごします。

そんな船橋FCの最後の活動の卒業イベントで、チームメイトとして共にプレーしていた小宮山尊信(プロサッカー選手 横浜マリノス-川崎フロンターレ−横浜FC)がジェフ市原ジュニアユース(現ジェフ市原千葉ジュニアユース)への内定が決まっていたため、ジェフ市原のコーチによるサッカークリニックが開催され、なんとそこでのプレーが評価され、ジェフ市原ジュニアユースへスカウトされたのです。

Jリーグの下部組織でプレー

ひょんなことからJリーグの下部組織でのプレーをすることとなり、前述の小宮山尊信と共に工藤浩平(プロサッカー選手 ジェフ市原–京都サンガFC−サンフレッチェ広島–松本山雅FC)らとプレー、トップレベルの選手を相手に中学時代もレギュラーの座は奪えなかったが、当時のコーチに人間性を評価されユースに進級し、高校3年間ジェフ市原ユースでプレーをします。2年時にサテライトリーグに招集、3年時にJユースカップで3位になるものの、トップ昇格は果たせず大学への進学を余儀なくされました。

大学に入り川崎フロンターレで働く事に

大学は当時東京都リーグに在籍していた専修大学に進学、スポーツ推薦ではなく一般生としてサッカー部で4年間プレーしました。その当時は大学サッカー界では珍しかった朝練を実施していた専修大学に、実家の船橋から通っていた為、朝6時開始の練習に間に合うため朝4時に起き、4時30分の始発に乗って小田急線向ヶ丘遊園駅が最寄りの生田キャンパスまで通っていました。

その状況は私を精神的にかなり鍛えてくれ、その後のMBA(経営学修士課程)を取得するための留学生活や川崎フロンターレでの7年間の社会人生活の過酷な境遇にも耐えられました。その大学生活の4年間、川崎フロンターレの育成普及スタッフとして活動させていただきました。

サッカー選手を引退し留学準備をスタート

当時、専修大学は川崎フロンターレと連携をしており、1年生は全員川崎フロンターレのスクールへ研修を兼ねたボランティア活動を行っていました。その1年間でフロンターレの方に認めてもらえ、2年3年と進級してもコーチングの勉強をさせていただき、4年生時にはアルバイトスタッフとして活動させていただきました。

さらにありがたいことに当時のゼネラルマネージャーの方に育成普及コーチとして川崎フロンターレへの就職を打診して頂きましたが、その時には留学をする決意をしており、丁重にお断りさせていただきました。大学入学時には東京都リーグ1部だった専修大学もその年に関東2部に昇格、3年時には創部以来初となる関東1部に昇格、1つ下の学年に荒田智之(プロサッカー選手 長野パルセイロ所属)、3つ下の学年に渡部博文(プロサッカー選手 ヴィッセル神戸所属)らと共にプレーし、4年時には関東1部リーグでプレーする経験もでき、未練なくサッカーを諦め、留学をして勉強する準備を始めました。

留学への動機とカナダを選んだ理由

校卒業後に留学をしていて、そこへ遊びに行きました。道中乗り合いのワゴンのような車で3、4時間初対面の人と移動したのですが、とても気さくな方で色々話しかけてくれたのですが、英語がわからないのでその方ともあまり会話も深くならず。。。というもどかしい思いをしたのが原点です。

その時感じたことは、「英語を話せたら一体何億人とのコミュニケーションがとれるのだろう。」です。大学4年生になってもやりたいことが見つからず、前述のフロンターレからコーチのお仕事はオファーされていましたが、プロでもない自分がどこまでサッカーを教えられるか、プロになるためのアドバイスに説得力はあるのか、という疑問が拭えずにいましたし、かといって周りのみんながやっているような就職活動は一切していなかったです。

そんななか、高校の英語教師だった父がある日、「やりたいことが特に決まっていないなら、就職せずに留学すれば」と勧めてくれました。この提案は本当に嬉しかったですね。

今思えば多分考えていることを見透かされていたのだと思いますが。上の姉2人とは10歳と7歳も離れていて、手がかかるのは私だけだったというのも留学できた要因だと思いますし、7歳離れている姉は彼女が大学生の時に中国への留学を経済的な理由で断念しているので、姉の分まで頑張らなきゃと思います。

もちろん留学費は親への借金で今でも返済しています。
という経緯で留学を決意したのですが、まず学校が企画しているTOEFLという留学の際に必要な語学力のテスト対策のクラスを受講しました。

これは学校の補助もあり、比較的安価で受講できるものだったので利用をしましたが、私の結論から言うと、日本での英語習得に関してはお金をかけるべきではないです。これは自身の体験から話せることで、留学、すなわち英語圏の国に行って学校に通い、生活することを最優先にお金をかけて欲しいのです。この訳は後で記述します。

カナダを選んだ理由は治安の良さとMBAの取得

留学準備に話を戻しますが、まずどこの国に行くか、というのが課題でした。アメリカはみんな行くからなんとなく嫌だなー。と思っている時に「ボーリング・フォー・コロンバイン」というマイケル・ムーア監督のアメリカ、コロンバイン高校で起きた銃乱射事件を題材としたドキュメンタリー映画を見ました。

その中で、アメリカの隣国のカナダは隠れた銃大国であること。しかしそれはほとんどが猟銃で、銃での死亡事件はアメリカの数パーセントにすぎないこと、そしてカナダの郊外の家では家に鍵さえかけないことなどに触れられており、単純に「安全で治安がいい国」という印象を受けました。

そのことは実際に行った経験上その通りで、バンクーバーの繁華街でさえ夜中に女性がひとりで出歩いていますし、私がいたナナイモという田舎町ではカナダ人のお宅は鍵をかけない人がほとんどでした。

そのような情報でカナダに興味を持っているところにさらに追い風が。なんと私の親戚にカナダ、バンクーバーで留学斡旋の仕事をしている方がいたのです。早速その方とコンタクトをとって色々相談していく中で、前から興味を持っていたMBA (Master of Business Administration の略で日本だと経営学修士課程)がとれるかもしれないとのこと。

なんでもカナダ、バンクーバーの西にバンクーバーアイランドという四国と九州の間くらいの島があり、前述のナナイモという田舎町にある大学でMBAが新設され、そこだと就業経験もなく(通常MBAの受講は2年以上の就業経験が必須となる)受講できるとのことでしたので、もうそこしかないと思い、即決しました。ということでカナダに決めた理由は治安の良さとツテがあったからですね。

カナダでの最初の1年間

大学卒業後の9月、初めてバンクーバーの地を踏みましたが、私が通う語学学校は前述の通り、バンクーバーからフェリーに乗って約2時間の、バンクーバーアイランドにあるナナイモという街だったので、そこからバスでフェリー乗り場まで移動し、フェリーに揺られて2時間かけて移動しました。そこからVancouver Island Universityという私が通う語学学校のある大学までまたバスで移動したのですが、ワクワクドキドキしながら移動したことを今でも覚えています。

さて私が入居する学校の寮に到着し、受付をすませようと寮の事務所に行くと、受付にいたのはなんとキャンパス内で働いている日本人の学生でした。最初の3ヶ月は日本人と日本語で極力しゃべらないと心に決めていたので面食らいましたが、その学生さんは私の意図を理解してくれたのか、私がどんなに拙い英語でも英語で返してくれました。

そこから学生寮の生活が始まりました。Vancouver Island University始め、カナダの大学寮は男女関係なく同じ建物の中にあります。年齢も国籍も様々な人がいて、共同のキッチンを利用して生活をしています。最初の部屋にはベッドと机がただあるのみで荷物を置いたら足の踏み場もない狭い部屋だったので、食事や食後の自由時間は共有スペースのリビングで過ごします。ただし、カナダは公共の場ではお酒を飲んではいけないことが法律で決められているので、お酒を飲むときはそれぞれの部屋でだけ飲むことが許されます。

寮に到着してから学校が始まるまで特にすることもなかったのでよくランニングに行っていましたが、大学から徒歩圏内にいくつもランニングコースが整備された公園があり、バスケットコート、ホッケー場などもあり、天然芝のグラウンドもそこかしこにありました。カナダという国はスポーツをするのに素晴らしい環境が広がっていることにその時に気付きました。

そしてランニング中にすれ違う人々がほぼ全員挨拶をしてくる。これには日本から到着したばかりの私は驚きました。今、日本は見ず知らずの方に声をかけること、かけられることがあまり良いこととはされていない現実がありますが、ランニングですれ違った人にただ目を合わせて頷くだけ、heyと声をかけるだけでとても清々しい気分になる自分がいました。

語学学校がスタート、レベルの高さに悩む

語学学校(以下 ESL、English as Second languageの略)が始まり、入学日に受けたテストの結果、私はAcademic preparation 3(AP3)というクラスに割り当てられました。これは大学進学を目指すクラスで、5段階に分かれており、AP5を合格すると、大学進学に十分な英語力があると認められ、大学に進学できます。

このほかにもcommunicationクラスがあり、これは話す、聞くことに重点を置いたクラスです。私は正直、ESLをなめていました。アメリカに留学に行った友人などの話を聞く限り、ESLはとても簡単にパスできるという話だったのですが、課題は多い、予習はしなくてはいけないということでとても大変でした。

しかも容赦なく不合格にされてしまいます。1学期、約3.5ヶ月を費やしたクラスを不合格になった場合また同じクラスを受けなくてはなりません。時間と費用の大幅なロスになります。

このようにカナダの大学に付属する語学学校はとても教育水準が高いことで有名です。なぜかというと、カナダはもともと人口が少ない(あの広大な土地に東京都の約2倍の3000万人超のみ)ため、私立の大学がほとんどなく、多くは州立、つまり公立の大学がほとんどです。そのため教師のレベル、進級のシステムなどが確立していて、水準がとても高いのです。これも私がカナダへの留学を勧めるとても大きな要素です。

人生のツケがが回ってきた。。

大学進学を可能にする方法がもう一つあります。それはTOEFLやIELTSといった英語の試験で基準の点数を取ることです。このテストの点数を取ればESLを取らずにMBAに進学できるので、費用と時間の節約になります。私はESL在学中に4回IELTSを受けましたが、結局Academic preparation 5(一番上のクラス)を合格した時と同じタイミングでIELTSの基準点を合格しました。今まで推薦で進学をしてきたツケがここで回ってきたかと思いました。

人生は面白いもので、楽をすればその苦労が必ず後に回ってくるのだと実感しました。この間、サッカーには全く携わらず、ESLや寮で仲良くなった友達が増えていきました。ヨーロッパの友達やアジア、日本の友達はどんどん増えていき、基本英語で接する毎日でしたが、カナダ人の友達は少なかったかなと思います。

2年目、カナダでサッカーを始める

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カナダ2年目の年、住んでいた学生寮の寮長の募集に応募して、採用していただきました。 寮長はその寮で一番大きな部屋に住むことができ、さらに寮費は無料なのです。このことにより、より多くのカナダ人学生と触れ合える機会が増えました。

そして無事に語学学校を卒業し、いよいよMBAの授業が始まるまでの間、つかの間の休みがあり、顔見知りになった日本出身の友人にサッカーに誘われ、プレーする機会をもらいました。一応日本ではプロを夢見てプレーしていたので、目立つことができ、そのチームの監督さんからチームに加入してほしいと言われました。MBAという超ハードスケジュールが待ち構えていたので、とても不安はありましたが、テスト前の期間は考慮してもらえるという条件でチームに入ることを決意しました。

チーム名はその名もナナイモユナイテッド(Nanaimo United)。そのチームで約1年間プレーすることで、起きた変化は、まず格段と英語を聞く能力と話す能力が上がりました。わざわざカナダに留学をしてチームに入ってまでスポーツをやろうと思う方はなかなかいないと思いますが、それを実施した私は新しい発見ができました。

スポーツをしたほうが、周りがネイティブスピーカーだらけになり、学校で学んだことをいきなり実践で発揮できることや、逆に学校では習わないような独特なカナダ人の言い回しやスラングと呼ばれる若者言葉のようなものも覚えることができ、コミュニケーションの幅が格段と上がりました。

また心配していた勉強との両立も、とても大変な授業や勉強の間にサッカーで汗を流すことによってリフレッシュすることができ、逆に勉強が集中してできるという思いもよらない効果もありました。

このような体験をする中で、やはりサッカーの力、スポーツの力は改めてすごいと実感していきました。そのように思っている中、前述で私にサッカーを誘ってくれた友人は、1年生の時からサッカーで認められて学校から特待生として学費を格安にしてもらって通学していました。この事実を知った時に、なんて賢い奴なんだ。と驚く一方、このことを知らない人が多すぎる、それを日本サッカー界のために使えるのではないか。と思うようになりました。

また、カナダのスポーツをする環境の豊かさは前章の中で触れましたが、サッカーをカナダで初めてグラウンドに行く回数が多くなる中で、小学生年代の子ども達が男子も女子も驚くほど多くの割合でサッカーをしていることに驚きました。

サッカーカナダ代表は弱い!?

その事実を知った時、ある疑問が浮かび上がりました。プレーする環境もサッカー人口の裾野も豊かなのに、なぜカナダ代表は国際舞台で勝ち上がって来れなかったのか(代表留学2008年当時)。その理由は2つあります。
1つは北米においてのサッカーというスポーツの位置づけ、もう1つは優良なコーチの不足です。1つ目は明確で、卒業論文執筆の際に調べたのですが、カナダのサッカー人口は小学生年代がとても多く、人口が一番多い競技です。しかし中学生、高校生と進むにつれてその数は減っていき、バスケ、アメフト、ホッケー、野球といったいわゆる北米の4大スポーツに移行していきます。

やはり北米ではプロスポーツの魅力としてはその4つのスポーツの方がサッカーを上回っているという証明でもあると思います。もう1つの指導者の不足は、カナダでは保護者兼コーチというスクールがとても多く、小学校のサッカーは体を動かすことがメインであり、競技力の向上はそこまで強く求められていないという印象を受けます。

幼い頃からサッカーをしてきて、大人になって社会人リーグでプレーする選手が、サッカーの基本的なポジショニングや戦術を全く理解していないのです。それがわかったとき、彼にはサッカーの面白さをもっともっと知ることができるチャンスがあったのに、本当にもったいないなと思いましたし、カナダのサッカーは伸び代がまだまだあるぞと思い、現在のビジネスの基礎になる考えを発案したのです。

Jクラブで働く事を決意

また、一方で日本サッカー界に直接関わりたいという思いもありました。やはりサッカーのおかげでこれまでの自分があるということをカナダで改めて認識しましたし、サッカー、スポーツの可能性をカナダで実感したので、何かサッカー界、スポーツ界のために役に立ちたいと思いました。

カナダでのビジネスを何となく考えてはいましたが、まず日本のサッカー、Jリーグのために働こうと決心し、Jリーグチームでの就職を目指して活動しはじめました。出身だったジェフと、当時知り合いがいたグランパス、そして大学時代にお世話になったフロンターレにMBAの最終論文を作成するためのインターンシップを申し入れました。タイミングなどもあり、フロンターレだけOKの返事をいただけ、3ヶ月のインターンシップを受け入れていただきました。

実家の船橋から溝の口まで約1時間半の道のりを3ヶ月間通い、ここで声がかからなかったら終わり。の気持ちで業務にあたり、3ヶ月がもうすぐ経とうとしている時にアルバイトスタッフとして業務を続けてほしいというありがたいオファーをいただきました。その後いつ正社員になれるかどうかはわかないというのが条件だったのですが、それから2ヶ月足らずで幸運なことに正社員採用の話をいただけました。私を大学卒業時に誘っていただいたGMの方に「戻ってまいりました」と嬉しい報告ができました。

川崎フロンターレでの7年間

2010年の4月から2017年の1月までの約7年間、川崎フロンターレにお世話になりました。その間、私は試合を安全に遂行する部署の運営グループに4年間、試合前のイベントを企画運営するプロモーショングループに3年間勤務しました。

フロンターレでの細かい業務内容はこの場では割愛させていただきますが、とにかく貴重な体験を本当にたくさんさせていただき、感謝の気持ちしかありません。運営グループでは等々力陸上競技場への来場者や川崎フロンターレのファン、サポーターとのコミュニケーションの取り方を学び、プロモーション部ではその方たちとのコミュニケーションだけでなく、イベントを企画するにあたっての異業種の方々との仕事の進め方を学びました。

社内、社外ともに本当に人に恵まれ、充実した日々を過ごしていましたが、プライベートの中で新しい命を授かったこと、2016年にフロンターレの20周年を祝う記念事業の事務局長を任せていただいたこと、フロンターレは私の1世代上の先輩が築いてきたクラブであり、その中でいかに自分の個性を出せるかという中で仕事をしていく中で、自分しかできない新しいことにチャレンジしたいという気持ちが大きくなり、2017年の1月で退社をする決断をさせていただきました。川崎フロンターレもその決断を応援してくれ、本当に最後まで頭がさがる想いでいっぱいです。

新しい挑戦とカナダへの移民

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私の中で、カナダに行って事業を興し、カナダのサッカー界、スポーツ界を日本の力で変えたいという思いはあり、会社を辞める決断をし、上司に通達はしたものの、まずカナダで起業するために何が必要なのか調べる必要がありました。

カナダ留学時代にお世話になり、先にカナダへの移民を完了していた友人に色々聞き、やはりカナダで起業をするためにはカナダへの移民が必須になることがわかりました。
そこで本当にカナダに行って大丈夫なのか自分の目で確かめたいと思い、2016年の8月に単身で、2017年の2月に妻と6ヶ月の息子を連れてカナダに現地視察をしに行きました。私が日本に帰ってから7年経ちましたが、バンクーバー、ビクトリア、ナナイモと私が訪れた街はあまり大きな変化は見られず、バンクーバーの繁華街でも夜中に女性が独りで出歩くことができ、ビクトリア、ナナイモはさらにのどかな時間が流れてしました。

スポーツを取り巻く環境もやはり素晴らしく、街のいたるところに人工芝や天然芝のグラウンドがあり、大学施設は体育館からジムなどの設備がとても充実していました。そして特に感じたことは、ベビーカーや車椅子、お年寄りに対してのケアをする意識がとても高く、社会全体で上記の人たちを助けていこうという意識がとても高かったことです。改めてこの国に移民をしたいと強く思いました。

カナダへの移住に向けて

カナダへの移民の方法として、BCPNPというBritish Columbia州が管轄している移民制度を利用することにしました。移民の申請はポイント制で、大きく分けて、education(教育)のポイントとwork(仕事)のポイントがあります。私の場合、カナダでMBAを取得していたので、educationのポイントは足りていたのですが、前述の通り、卒業してすぐにフロンターレで働いたので、仕事のポイントが足りず、カナダの会社から仕事のオファーをもらわなければなりませんでした。

2月にカナダを再訪した際、私のMBAの先輩でフランチャイズのガソリンスタンドをいくつも経営しているインド人の男性と面接をし、仕事をもらえることになりました。そのジョブオファーを使って現在私はBC州に移民の申請をしています。うまくいけば8月に許可がおり、9月には労働ビザがおり、カナダに移住することができます。9月から約1年間ガソリンスタンドの店長(この事実は会話の中でとても盛り上がります!)として働き、移民が完了したらカナダでも企業ができます。その間は日本のA toとカナダの生活の二足のわらじです。

カナダは社会保障がとてもよく、医療費はほぼ無料、子育てに対する補償もとても充実しています。移民が完了すればそれらの補償が受けられるので、息子を連れていく以上移民が必須となります。結局永住権取得までガソリンスタンドの店長を2年間実施しました。

そして2020年にカナダ ビクトリアにてサッカースクールを開校しました。
日本の経験のあるコーチ達をカナダに招き、現地の子ども達のサッカー技術の向上を図ること、そして日本人コーチの海外経験を豊富にする両方を目的としています。
開校から数名のメインコーチを招聘して事業を行ってきましたが、やはりビザの支給ができないことが人材確保の面でネックになっておりました。
そこで2024年に現地サッカースクールを株式会社A toの子会社化をし、現地法人としてビザが発給できる体制になりました。

2025年にメインコーチとしてお招きした経験豊富なコーチと弊社を通じて高校留学、ワーキングホリデーとしてカナダに来てコーチングを学びたいコーチをアシスタントコーチとして現在サッカースクールを運用しています。

最後にカナダのプロサッカー事情

2021年に行われた東京オリンピック2020大会ではカナダ女子代表は見事金メダルに輝きました。ここからわかるように女子サッカーは世界ランキングも6位(2022年1月、日本は13位)と世界でもトップレベルの実績です。 

一方男子はこれまでW杯には1986年メキシコ大会に一度きり出場したのみとあまり目立った活躍はしていませんでしたが、2022年のカタールW杯の北中米カリブ海最終予選で強豪メキシコ、アメリカを抑えて1位で突破し、本戦出場を果たしています。今回のカタール大会のW杯ではバイエルンミュンヘン所属のアルフォンソ デイビーをはじめとする欧州主要リーグで活躍する選手たちが台頭しました。

実は次の2026年のW杯はカナダ、アメリカ、メキシコの三カ国協催が決定しており、W杯のホスト国になります。それを見据えて2019年に史上初めてCanadian Premiur League (CPL)というカナダ国内のプロリーグが発足しています。
ここで日本サッカーの歴史とカナダサッカーの歴史の類似点に気がつきました。

日本は1993年にJリーグが開幕。1998年にW杯に初出場して、2002年に自国開催を実現しています。その後の日本サッカー界の発展はご存じのとおりです。一方カナダは2019年にCPLが発足、2022年のW杯に36年ぶりに出場、そして2026年に自国開催を控えています。この大きな出来事の時にはサッカー人口は爆発的に増えています。そしてそれはカナダサッカー界の発展に大きく寄与することは間違いありません。

A toはCPL所属のPacific FCとの関係性を強化し、2024年には中村憲剛氏がCPL所属のPacific FCにS級ライセンス取得のゲストコーチとして2週間帯同しました。また2025年1月に日本で初となるCPLのトライアウトを実施しました。そのトライアウトに、カナダで初の女子サッカープロリーグとなるNorthan Super LeagueのVancouver RISE FCも参加しました。同年2025年には先ほど記載したサッカースクールのメインコーチをPaicific FCの下部組織のコーチとして紹介し、またトップチームの分析担当コーチを紹介することも実現。日本とカナダをサッカーで結ぶ活動を加速させています。

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